青焔会報 2006年5月号

 
   
生け花  
米山郁生
 
   

 新栄教室の窓の外、ボウリング場の屋上に出る。草花の手入れをしていると教室の中から6才、伸ちゃんがのそっと出てきた。屋上の草花を見渡し大声で“先生!買いすぎ!”と叱られた。つい頭を下げる“ごめんなさい”でも弁解をすると、道端で折れていた梅の枝を土に差し込んだり、自然生えや頂いた草花を鉢に植え替えたりして増えていったものや、花屋の隅で商品から外されてしょぼくれた鉢を見つけ、その鉢の人生?鉢生?を想い“生き返れ!”と研究所へ連れ帰ったもの。又、はがき絵教室用にあちこちで購入した鉢はいざ、その日になると、花の咲いたバランスやタイミングが悪く手遅れ、植木はどんどん増えていった。数えると小さなものも含め372鉢。伸ちゃんに言われても無理は無い。

 金曜日午前六時、ザァーザァーと雨の様な音に眼が覚める。教室の外、屋上の雨樋から水が溢れている。ボウリング場の水槽タンクの掃除の為、定期的にこの曜日この時間に水が放出される。急いでゴム長靴に履き替える。屋上の排水溝に大きめの鉢を裏返してかぶせ水を止めた。みるみる内に水がたまる。屋上には傾斜がついているので、深い所で15p、浅い所でも5p程の大きな水槽が出来る。大小様々な鉢が水につかる、鉢の下の穴からタップリ水を吸わせ、上からはたまった水をバケツでザバザバとかけてやる。小さな可弱い草花は別だが、少しばかり乱暴にかけてやった方が草花も喜んでいる。一時間程の間に370程の鉢全部を上から下から水びたしにする。定期的二週間に一度はするので、草花達は二週間生き延びればタップリと水分がとれる事を知っている。部屋の中にあったシクラメン等は、部屋の中ではナヨナヨと上品に薄い葉っぱを広げていたが、外に出されてからは二週間は水がもらえないかも知れないと自己防衛、葉肉の厚いたくましい葉っぱに変貌してしまった。

 草花も各々に思考をめぐらせている。可弱い雑草は少しふれただけで種子が飛び散り子孫を残す、又、土の中に大きな根、深い根を張りトカゲのシッポ切りの様に、引っ張ると根元から千切れて根っこは生き続け知らぬ間に再生してゆく。鉢の中、種があるのか判らないものや、枯れたかも知れない小さな木も忍耐強く水をやり続けていると必ず芽をだす。草花の元気さは葉を見て判断する。葉のつや、色あい、延び具合、乾燥度合いでその植物の生命力を見る。自分がどんなに疲れていても草花が弱っていると水をやらなければならない。求める事も、叫ぶ事も、動く事も出来ず、じっとその場で耐えている植物を身近に置く以上放置出来まい。水道迄約50m、長いホースを延ばす、夏場は大変な労力となる。

 時には残酷な事もする。7〜8年花も咲かせず実もつけず、葉っぱだけで装い続けた1,5m程のザクロの木がある。昨年Nさんから剪定しなければ実はつかないと“ザクロ剪定の図”を頂いた。その時期では無かったので大切にしまい込んだ。齢の所為、Nさんには悪いがどこにしまったか行方不明。仕方無く4月末頃“今年実らなければちょん切るぞ!”とブツブツ言いながらあちこち勝手に新芽の小枝を切った。5月中旬、“ちょん切られてはかなわん”とザクロも観念したのか赤い花の実をざっと90個程。ザ・クローが実ったとはこの事か。

 直径50pの鉢、高さ1,4mの梅の木が育っている。昨年から今年にかけ強風の為何度も転がった。枝先が折れ、葉が飛び散った。その梅の木の中間程に昨年初冬から3p位のミノムシがぶら下がっていた。何度梅の木が倒れてもその細い糸で身を支え、糸が千切れる事は無かった。フッと吹けば飛んでゆきそうな危うい状態で度重なる災難にたえる、この細い糸にどの様な力が備わっているのか研究の価値がありそうだ。

 あるカルチャーセンターで講義を依頼された。講演でも講義でも予定時間より早く入るのが常で、その地域、場所、部屋の周囲の状況を見ておかないと落ち着かない。部屋の隅に直径30p程の植木鉢が8個程置いてあった。驚いた事に皆草木が植わっていたが半分は枯れ、残りは瀕死の重傷、水が何ヶ月も与えられていない。土がバサバサ、コチコチで中には土がこれ以上乾燥出来ぬとヒビ割れていた。水を! 容器を捜す。一瞬我が眼を疑った。棚の上に水入れがずらりと並んでいる、水道の蛇口もいくつも部屋の中に並び、たくさんの花器が…… その部屋はお花の教室。しかも流派の違う3つの会が共同で使っていたのだ。ここで何を学び、何を教えていたのだろうか。

 草花に対する愛情が無ければ形を教えても意味が無い。一本の草花、枝を切る行為も素材に対する愛情や生かす心が無ければ “生け花 ”とは言えまい。

 昔 “思いやりが無い。植木に水をやる様に ”と叱った御人が雨の中で一生懸命水をやっていた姿を思い出した。

 植物は根から水を、葉の裏の気孔から空気を吸い、葉の表面葉緑体から受けた太陽の光によって水を酸素と水素に分ける、酸素は気孔から排出し、残った水素に気孔から吸った空気の中の二酸化炭素を合成して成長に必要なでんぷんを造る。又、気孔は余った水分を水蒸気として放出したり、呼吸作用として酸素を採り入れ二酸化炭素をはき出したりもする。植物が出す酸素は人や動物の生きる根元的な要素となる。若い内はそれ程関心を示さない植物も、齢を重ねて園芸や菜園、森林浴に興味を増したり、自然の中で暮らしたいと願うのは、次第に弱くなった心臓の働きが酸素を吸収しにくくなったり、心臓に負担がかかるのを助けようとする本能的な願望なのだろうか。

 草木、花の生き様は人の生と密接に関わっている。

 研究所の草木を手入れしていて思うのだが、子育ても総て同じ。水をやり過ぎると根ぐされをする。子供を可愛がり必要以上にかまい過ぎると根性が出来ず、自分から思考も行動も起こさず、自立せず、依存し過ぎる性格を造る。放置し過ぎると草木は枯れ、人は愛情が乏しく人間性を無くしてゆく。時には刺激を与え、草木、人の個性に合った育て方をし、結果が出なくても忍耐強く愛情をかけ続けなくてはならない。

 “芸術は止揚である ”やり過ぎてもいけない、やり足らなくてもいけない、その丁度良いバランスのなかで総ての生命は輝くのだ。

 自分に都合の良い育て方はあり得ないのだ。

 
   
青焔会報 一覧に戻る
 
   
絵画教室 愛知県名古屋市内外 青焔美術研究所 トップページ