青焔会報 2005年3月号

 
   
洗濯バサミ  
米山郁生
 
   

 公募展を見る。どの会にも注目される作家がいる。公募展の作品は研究論文の様なものだ。芸術とはこうあるべきだ、自己の美意識は、追求する事象は、精神の在り方は、各々が各々の立場で主張する。一年に一度の作品発表は公募展会場が真剣勝負の場となる。他人と対峙するのではなく、自己自身の精神の過程の中で一年前の自己の作品に挑戦してゆくのだ。

 新聞、美術誌、雑誌等での評価から様々な作家の仕事振りを知る。加えて自分で確かめて来た作家の中の注目に価する作品を公募展の中から自己の眼で確かめ、自分なりの感じ方で再確認する。日本の中で常に20名程の作家の仕事に関心を持つが、年毎に充実してゆく事程難しい事は無い。同じ力の仕事を続ける事は停滞と同じだ。少しでも変化を持ち、気迫を加え、精神を高揚してゆかなければ、見る人の側からは忘れ去られてしまう。そんな思いで作品を制作する。

 絵を見る。絵が判るという事は、プロであるから絵が判るとは限らない。アマチュアの人や何も描かない人が、プロ以上に辛辣な批評をする時がある。技術的な事や、学問的な事ではなく、直感的にものの本質を感じる。感受性の豊かな人、直感力の鋭い人、絵以外の事でも物事を突きつめて、作ったり考えたりする人は皆そうした力を持っている。小学校低学年の子供でさえ、そのものの本質を見抜く直観力は鋭い。人が真剣に物事に対峙する姿は美しい。その時の緊張感、精神力が線や色調、構成に表れてくる。その持続が傑作を生むのだ。但し、たとえ3時間夢中になって描いていても疲れたからといって、その後、3分、いや1分でもいい加減に筆を加えればその絵は駄目になってしまう。

 プロとアマチュアはどう違うか。それで金を得るからプロ、職業にしていないからアマチュア、いやそれも違うのだろう。作品がいいから絵が売れるとは限らない。素晴らしい芸術品が売れないで、単調な飾り絵が売れる事も数々だ。絵に向かう態度の問題なのだろう、お金はそれに付随したもの、様々なカラクリや策略があり、そうした事に心を汚されていてはいい絵は描けまい。

 絵の価値は作家が亡くなって100年程して決まるのかも知れない。生きているうちはその作家の人間関係や活動の仕方によって価格に影響を与えるが、その作家が無くなって100年もすれば単純に絵に対する冷静な見方が価値を作ってゆく事になる、だけとは限らない。付随した様々の事柄に惑わされなく絵を純粋に評価する人々も多く居るのだから。

 私の絵を見る基準の中に、その絵に精神力はあるか、生命力、気迫はあるか、余力はあるかを本能的に見る。元気があればいいというものでもない、大人しい絵、静かな絵、暗い、寂しい、悲しい絵であってもその絵がその絵以上に伝わってくる様々な気がその絵の価値を高めてゆく。

 1月下旬、中日新聞の朝刊に“幼い心深い傷”のタイトルで、タイ南部バンガー県の避難住民キャンプ内で多くの子供達がスマトラ沖津波の絵を描いていると報道された。計画をしたのは本部がバンコクにあるNGO組織のドラアン・ブラプ財団。被災した子供らの心のケアが狙いだという。子供の絵は一枚50バーツ(約150円)以上で販売し売上げの3分の1を子供に渡すという。日本の貨幣価値に換算すると一枚あたり500円を子供に渡す事になる。カラー写真にはビニールを張ったテントの様な小屋で3人の子供が絵を描いている。天井に張られたヒモや棚に洗濯バサミで挟まれた絵がぶら下がっている。机の上には豊富なクレパスや絵具が散乱、描かれた絵は5分か10分程のなぐり描き、何の感情も伝わってこない、只、形を追った説明図の様なもの。とても被災を受けた子供達の心の叫びを絵にしたとは思えない。子供達にこの様な方法で描いた作品をお金に替える知恵をつける。大人達は子供を救う為に絵を買うのであろうが、小学校低学年の子供達が労力をかけず一日30枚描けば日本の貨幣価値で一月45万円程になりはしないか。

 将来の為に蓄えたい 子供達の声。彼らの心を蝕んでゆく大人達の責任は重い。

 
   
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