青焔会報 2005年2月号

 
   
憩 室  
米山郁生
 
   

 人間の一日は24時間、60億年の宇宙の一日は瞬時。昨年暮れのスリランカ行きは一日の差で命が救われた。小牧空港まで出かけ飛行機が出ていたら当然乗っていた。ホテルは全壊、道路寸断、空港は閉鎖。水も食糧も無く、飛行機が出ていたら現地でどうなっていたか。“救われた”だけでは済まされない。20数万人に及ぶ死者が出て自分が生きている事が素直に喜べない。何か起こる、何かあると思っていた。

 1月13日夜半頃から左脇腹がキリキリと痛んだ。医者へと思ったが、スケジュールが詰まっているのと昼間に痛まない。18日夜半、痛みが増した。この痛さは20年程前にも起きた事がある。その時はアクロバットの様に転げ回り、逆立ちして足を上げたり、ねじったり、腹をよじって痛みを透動。3時間程の過酷な運動の結果痛みは消えた。その時の痛みと同じ。今回病名は “夜行性腎臓結石”と自分で命名。人間は本来、動物と同じ、ある程度は自分で治す力を持っている。人間の中にある異物は本能的に排除しようとする力が働く。内臓が異物を外へ外へと押し出す構造になっているのだろうと考える。ならば脳から患部に指令を出して異物を排除しようと念力をかける。2時間、6mm×5mm×4mm、宇宙のハレー彗星型、変形おにぎりの様な石がペッと出た。パッとでもプッとでもなくなぜかペッ!。

 午前8時、今日は “病院に行く事になる”と予感、穴のあいた靴下はさけ身だしなみを整えた。案の定、午後4時、早朝の異物排出の生みの苦しみを終えた後、牛乳びん1本程の下血。あれ、俺は女性だったのかとあっけにとられ、あごをなぜる。ヒゲは健在、安心、しかし不安。

 夜11時迄に12回、2リットル以上は放出。こんな時にも回数を正確に数えるという事は何のこだわりだろう。血の気の多い性格も、穏やかな気分、少しふらつき頭が痛む。動けないからここで寝るかと研究所の簡易ベッドを取り出し横に。待てよ、このまま寝てしまうと出血多量で朝には仏様?。八事ではなく、八事日赤に電話をかける。“すぐに来て下さい”車を運転して救急棟へ。駐車場が判らない。すぐ帰るからと路上駐車。だが即入院!の指示。“家族の方は?”“私一人ですよ”“えっ家族の方は来てないんですか”少しおこっている。“小さい時から自分の事は自分でする様に仕付けられたんで!”昔、若かった看護婦さんににらまれた。夜中、あちらを検査、こちらを検査。こんな時間にと思いながら感謝。

 大腸憩室炎。日頃休みなく働いているので、せめて大腸位に休憩の室をという癒し系の病気なのだろう。昔、血を吐きながら絵や小説を描いた作家達にあこがれた。それにしても大出血サービスまでしなくても良いのに。

 10日程入院して頂きます!。 “明日は蟹江で講演がありますので出かけますが。明後日も講義がありますので”“駄目です。こんな身体で”“急に連絡が取れないんで皆さんに迷惑かけますから”“駄目です”………押し問答を40分程、最後にお医者さん “じゃ 明朝検査の結果で決めましょう”“タイムリミットは7時ですから宜しく”

 翌朝7時になっても7時半、8時になっても主治医殿はやって来ない。さてはこのまま知らんぷりをするのだなと看護婦さんを呼ぶ。 “もう時間が無い、すぐ出かける!”やっと主治医登場。 “仕方無いですから、何があっても自己責任という事で書類を書いて下さい。”はい、はい何でも書きますよと文面作成、署名。出血の止まらないまま点滴の管を腕につけ、飛んで帰ってカラスの行水。蟹江まで自分で運転。世の中どこでこういう人間が運転しているか判らない、自分が気を付けていても事故は防ぎようが無い時があるのだと少し反省。はばたき幼稚園、お母さん方の参加者は80名余り。絵の話の後、一人一人、母親、ときには父親と子供、兄弟の絵を比較しながらアドバイス。2時間余りしゃべりっぱなし、最後には机に片手を支えて無事終了。講演後流石に30分程横にならせて頂く。幸いな事に同園のアートセラピーの会員Nさんに研究所まで送って頂く。病院で即血液検査。主治医殿曰く“血は半分位になっていますよ。明日はどうしますか” “連絡が取れたので大人しくしてますから!残念!”ニヤッと笑って “そうして下さい。” 

 一週間点滴。検査の時、車椅子で移動。1Fロビーを通った時、7年程前の児童画のお母さん、元気な声で“先生、こんなとこでどうしたの”と駆け寄ってきた。周囲のロビーで座っていた20人程の人が “こんなとこってどんなとこ”って顔で一斉に見る。

 退院翌日は岐阜加子母村で講演二つ。小学校新入生のお母さん方と小学校の先生方、教育委員会で話をしている時に突然、中国に居るはずの周君が “先生、大丈夫ですか”その後も岡山、静岡、三重、10年程前に通っていた人達や父兄の方が20数名 “夢で見た、先生生きとる”と電話。東京に嫁に行ったKさんから便り “先生、私と一緒の時に入院してたんだって。私は女の子、ちょっと難産。先生は?”私だって難産……いやバカな……

 子供達に聞かれた。“先生、お腹何入ってるの”“あかちゃん!”“いつ生まれるの”“今眠ってるから”……… 退院後、子供がお腹をなぜて言った。“あっ 先生のお腹へっこんだ”“生まれたの?”スリランカ悲報の中に私の名前を探したり、大出血を祝ってか赤飯が届けられたり。

 一月の間に2度命を助けられた。まだまだ働きが足りないという事か。生涯、無断欠勤は始めて。お詫びの為の経過報告です。皆さんもお身体大切に。

 
   
青焔会報 一覧に戻る
 
   
絵画教室 愛知県名古屋市内外 青焔美術研究所 トップページ