青焔会報 2003年2月号  
   
 
米山郁生
 
   

 芸は人なりと言う。

 その人柄が絵を描かせる。

 絵を描こうとする。何を描きたいのか、何を言いたいのか、何を伝え表したいのか、当然その主題になるものがある。キャンパスを一つの劇の舞台としよう。主役が居る。その主役を生かす為の脇役が居る。主役を殺してしまう様な強さ、大きさではいけない。かといって控え過ぎてもバランスが成り立たない。主役に対し適度な位置に、大きさ、強さ、色合いを保って治まる。通行人や道具立て、背景も必要となろう。それらのものが主役や脇役を程良く生かす為に、自らの役目を果たす。

 線はいのちとなる。油彩の様に絵具を重ね、描いた線を消す事もあるが、線を残したりタッチをつけたり、ペインティングナイフで描いても、その使い方により筆と同じ様な線の効果を表す方法もある。線も様々である。緊張感のある線、神経質、おどおどとした線、ゆったりと大らかな線、大らか過ぎて間のびした線、激しい怒りの線、生真面目な線、不安定な線。素描、水彩、水墨、墨彩等は線そのものが絵の構成の命となる。どの様な大きな絵も、又何百という線の中のわずか一本の曖昧な線によって、絵の緊張感が崩れる事もある。

 次にどの様な色合いにするか。暖色系でまとめるか寒色系にするか、両者のバランスをとるか。それで絵の情感は変わる。主体になるものと同系色でバックを塗り、絵をまとめるか。反対色、補色の関係を求めて絵に動きをつけるか。絵のテーマに沿って色彩を決める。明・暗の関係と彩度、鮮やかさの関係をみる。色にはその色の持つ思想、情感があり、それをどの様に組み合わせるか、線の各々が持つ性格と構図を含め、組み合わせて考えてみると良い。

 それらの他に画面効果をみる。塗り込み方や絵肌の作り方、タッチの構成等の変化に加え、様々な画材を利用する。画面に新聞紙や和紙を貼ったり、絵具に砂や石膏、オガクズ、貝殻の粉末等を混ぜたりして、画面から伝わる情感を作り上げてゆく。

 絵には様々な描法がある。子供の頃使うクレヨン、クレパス、クーピー、そして水彩、ガッシュ、パステル、油絵、日本画。それらは総て同じ顔料を使う。その顔料を混ぜ合わせる展色剤というものが変わる事によって、画材が変わるのだ。画材によって描き方も様々だが、水彩画を何回も色を重ね強くこする様に塗ってしまっては、前に塗った色と混ざり濁った色になりやすい。反面油絵を3回、4回で完成してしまっては、本来油絵具の持つ性格を無視し、水彩画の様な扱い方しかしない事になる。世界の名画と言われる作品は何十回、何百回と色を重ね、その絵具の持つ深い味わいを造り上げてゆく。ルオーを見るが良い。5年、6年と時間を費やし、それでもまだ未完成だと主張する。絵とは精神の積み重ねなのだ。知の部分を基に絵を作る場合は別だが、初心者が3・4回で完成させてしまうのは、楽器を扱い始めドレミを出してすぐ止める様なもの。メロディーにもならなく、ましてや主義、主張、情感等を表す事は到底出来まい。

 一枚の絵を描く為には、様々な要件を満たしてゆかねばならない。その組み合わせを含むと数限り無い思考を重ねてゆく。普段、我々は具体的にそれらの事を確認して進める訳ではない。しかし本能的にそうした様々の要件を選択してゆくのだ。これは絵の場合だけでなく、もの事の考え方の基本として必要となる。

 世界情勢が緊迫している。

 イラクはけしからん、やっつけてしまえと言う人々が居る。そうだ、そうだ!と追随する人々が居る。状況が明確になっていない今、もう少し突き詰めて慎重に行動せよという人々が居る。戦争は紛れもない殺人行為だ。安易な結論を導く中では、何の正当性も無い。絵を描くという事は、その制作過程に於いて社会や政治、経済、哲学、宗教等を思考する事と共通する。

 芸は人なり。その想いやりの深さ、情や、思考の深さ、精神性の深さが、良い絵を描く可能性をつくる事になる。

 
   
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