青焔会報 2003年1月号  
   
拉致  
米山郁生
 
   

 "朝鮮、朝鮮、パカすんな。同じ飯食ってなぜ悪い"小学生の頃、どのクラスにも朝鮮の国の子が居た。私達のクラスにもK君が居た。多くの子供達がいじめた。大人達がK君と遊んではいけないといじめを煽った。いや大人達がいじめの原点を作ったのだろう。子供達にとってK君をいじめる何の理由も無いのだから。私達の遊びの中にいつもK君は居た。他のグループの子にいじめられると、彼は冒頭の言葉、大きな声で反発した。"日本人と同じ飯を食べ、同じ様に生きているのに、なぜ僕達をいじめるのだ"と。

 北朝鮮拉致事件の報道を聞いて、何故か釈然としない。帰国した5人の人達の、日常の生活が数々報じられる。二十四年振りに平和な刻を取り戻した。有り難う、うれしい・・・。だが反面、北朝鮮に残された家族、子供達はどうなるのか。新たな拉致の状況を作っているのではないか。

 二十歳の頃、友人達と毎日の様に議論していた。もし肉親が火事現場に取り残された時、濁流に流され溺れそうになっている時、自分はどう行動するか。肉親でなく見ず知らずの人であったらどうするか。多くの友人が肉親である、なしに関わらず自らの命をかえり見ず助けに入る、であった。議論であるから理想的な結論を出す事もある。拉致問題に関し、親が北朝鮮に残された子供に対し、"無事を願う"で納得しているのだろうか。当然、約束の期日が来たら子供の元へ行く。それを求める事がごく自然の結論ではなかろうか。死亡した八人の結果も出ていない。他に八十名、一〇〇名とも言われる拉致被害者が居るという。そういう人達の総ての可能性を無くすかも知れない今、何故、家や職場が決まってゆくのか。

 国が国の方針を決めてゆく時、一人一人の個人的な感情に左右されるのでなく、本来あるべき姿を求めてゆく。今どうするのかではなく、過去どうであったのか、今どうするべきか、未来はどうあるべきか、その三つの視点を相対的に考える事によって、正当な結論が出てくるのだ。日本政府の相手が悪いから自分もこうするという場当たり主義の対応が、現在の閉塞状態を生んだのだ。拉致問題の解決無くして、国交正常化はあり得ないとする政府の態度は、過去の戦争犯罪をどう見ているのか、自国が他国を侵略し、破壊、殺戮を重ねた、その戦争責任をどう考えているのか。これは国の問題でもあり、我々国民一人一人が考えなければならない事でもある。

 ドイツではナチス戦犯に対する時効を廃止し、厳しい追求を続けている。たとえ八十歳という高齢であっても、元ナチス親衛隊員を突きとめ逮捕し、終身刑をも処している。それは国が世界に向けて自国の論理の正常さ、精神の在り方の明快さを証しているのだ。日本は自国の戦争犠牲者への遺族年金は支給していても、植民地、占領下に於ける他国の犠牲者、被害者に、自らの責任を明らかにせず、従軍慰安婦、強制連行の問題等、被害者の側からの訴えによって問題を提訴されてきた。 "日本は顔の無い国"と諸国から評されている。物事の真理を追求してゆくのではなく、見ない、聞かない、言わない、素知らぬ顔でやり過ごす。寄らば大樹の陰、強い物に寄り添ってその恩恵を被る。世界が平和への道を探っている時、その思潮に逆行する行為を行う。事無かれ主義や事後処理で問題をすり抜けるのではなく、総ての原点にかえって事の真相を明らかにすべきだ。

 国民の関心は、五人の人達が日本で何をしているか等ではなく、北朝鮮に残された子供達がどの様な思いをしているのか、そしてこの5年間程の間に餓死した三〇〇万人とも言われる人達、そして今も飢えに苦しんでいる人達の事なのだ。

 
   
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