青焔会報 2002年7月号  
   
合掌  
米山郁生
 
   

 “絵描きは不公平でいいんですよ、くやしかったらいい絵を描けばいいんですよ”東京都上野美術館 日本表現派展の展示をしながら岡本美術運送店の主人 岡本健輔氏が言った。もう15年程にもなる。身長160cm、50kgもあろうか小さな身体で大作を軽々と運ぶ、“重い作品を大柊マですね”と声をかけると“いや、力で持とうとするから大変なので、気持ちが入ると作品の方が身体について来てくれるんですよ”一人一人の作品の何年か前からの仕事振りを頭に入れて展示に向かう。“こんな絵を描いていては駄目ですよ”“この人は3年前の作品は良かったが年々気持ちが入らなくなってるね”

 絵かきは、いや絵かきに限らず創作をする人達はその展示場所にこだわる、皆がそれを主張してしまっては収拾がつかない、日本表現派に出品して3年目、20年程前の事、代表の鶴の一声“展示は岡村君に任せる、一切口を出さない様に”美術運送店の主人が展示をする、興味があった。毎年、展示を手伝った。小気味の良い寸評と妥協しない配置が、氏の人と作品に対するこだわり、洞察力。何よりも一作一作を生かす為の配置に心を配った。

 その岡村さんが亡くなられた。

 葬儀委員長は芸術院会員 院展の松尾敏夫氏、弔辞の中で岡村さんの言葉を披露しておられた、“昔、横山大観先生の頃には審査会場はピンと張りつめて緊張感があったが今は皆さん仲良しですね”と言われて身の引きしまる思いがあった、と。友人の彫刻家の弔辞の中では出来上った彫刻を運送の為、布にくるんだ時 氏曰く、“その時本当の彫刻が表れるのだ”と。ものの細部を削り落とし、説明や飾りを無くす、そこに本当の姿が表れるのだと。岡村さんの遺影を囲んだ献花には片岡球子、平山郁夫、福王寺法林、一彦、松尾敏夫、卿倉利子等、院展同人の日本を代表する名が並ぶ。

 “僕は日本表現派が好きだ、どんどんいい会になっている”“米山さん名古屋の人達が頑張ってともっともっと素晴らしい会にしましょう、一緒に頑張りましょう”氏の熱っぽく語った声が聞こえる。日本表現派の第30回記念展に氏はお祝いとして10万円寄付された、会で検討し、最高賞の日本表現派賞に重ねてO氏賞としその副賞に決めた。その賞は私が頂いた、懇親会を兼ねた受賞式の席上、皆に言った。岡村さんに頂いたO氏賞、賞金は二次会に使わせて頂きます、是非御参加下さい。二次会に時間の許す殆どの人、50名程が参加した。翌日、展示会場で岡村さんが言われた“今時、そんな使い方をする人が居るんですねえ”うれしそうだった。毎年、名古屋展の搬出終了後、作品を満載したトラックに乗り込む岡村さんを全員で手を振って見送った。“又、東京で逢いましょう”手を振りながら答える岡村さん。うれしそうだった。そうした感情を気持ち良く表わした。院展の全国の展覧会を手がけ、新進作家は勿論名のある多くの作家も作品について氏の意見を求めた。碌山美術館始め数々の美術館、昨年はバッキンガム宮殿での展示も依頼され出かけた。

 6月初旬、私の年内のスケジュールの中で何一つ予定の入っていない日は7月1日この日のみであった。相談、講義、講演、様々な予定が組まれたが、総て他の日に変更になった。8月の写生会の下見に早朝から出かける由 周君と決めた。これも前倒し変更となった。これは何かある、この日は予定を組まないでおこうと決めた。

 岡村氏の亡くなられたのは6月23日4:43分、肝臓ガン、他の臓器にも転移していた。享年64才、葬儀はなぜか8日後、7月1日となった。お別れのとき、柩の中で、一文字につむった口にまだまだ美術界を見ていたいという無念さが伺われた。何度も頬を撫ぜた。手の平に伝わる氏の願いが頬の冷たさに反して熱く伝わった。東京芸大彫刻科を卒業したと聞く、しかし生涯を運送店の主人として生き抜いた。その人柄、言動は美術界の多くの人の心を動かし、信望を集めた。人間の生き様は何をするかにあるのではなく、どの様に生きるかにある、一つの事に集中し深める事によって総ての事を得る事が可能となるのだ。

 この日誰からか新聞の切り抜きのFAXが送られて来た。7月1日岐阜県加子母村で土砂崩れ、2人死傷、現場は渡会温泉方面に向かう未舗装の山道。土砂崩れは幅50m、高さ10mにわたる。8月初めの写生会は安全な道を選んであるが、この道は下見の時、周君と“力強い滝がある”と入り込んだ道、“奥に自然のままのいい温泉旅館が”しかし午後のスケジュールの関係で引き返した。当初、7月1日予定の下見であれば場所、時間、共に山崩れに遭遇!

 岡村さんが守って下さったのだろうか。

 合掌。

 
   
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