青焔会報 1998年9月号

 
   
真贋  
米山郁生
 
   

人参

 子供の頃、人参が大嫌いであった。アクのある味、得体の知れない甘さ。口のなかでモゾモゾと生きものに変ってゆく様な気がして、中途半端な味のする人参が苦手であった。

 好き嫌いをつくらせないのか、貧乏だったせいで何でも食べさせる為に、好き嫌いをさせなかったのか、それは定かではないが、食べものを残すとよく叱られた。他に嫌いなものはないのだが、どうも人参は苦手であった。人参を残して2,3度叱られた。その後、どうすれば食べられるのかを考えるのではなく、どうすれば食べずに済むのかを考えた。食事どき、きれいに人参だけを残して、親父やお袋が他事に気を取られているすきに、“ご馳走様”と手を合わせる。その後、口いっぱいに人参を放り込んで、裏庭に飛び出し、花壇の隅にペェーッとはき出す。両親は何も言わない。”うまくいった“とその方式を採用する事にした。なぜかその後、人参の入っている量が少なくなっていった。お袋は何事も承知の上、”仕方無い“とあきらめたのだろう。

 人参に限らず、旬の食べ物は今に比べ、数段アクが強かったように思う。野菜、果実、魚等、そのものの独特の味わいがあり、各々が自己の味覚を充分主張していた。昨今、なぜか味は中途半端で、水っぽく、気の抜けた様に思う。そのものが自然に育つのを待つのではなく、早く、大きく、きれいに。流通の合理化もあろう、規格化されたものを作ろうとしたり、時には人の作らない時期に、季節を外して作ろうとする。それが味覚を置き去りにし、旬の刻を無くしてゆくからなのだろう。本来、動、植物は自然の移り変わりの中で、その暑さ、寒さに添った味覚をかもし出す。その中にその季節の移り変わりに必要な抵抗力や活力、生命力を凝縮させているのではないか。それが旬の独特のアクを造り上げているのだろう。それを無視して、外観だけの食物を造ろうとすれば、一番大切な“いのち”の為に必要なものを削ってゆく事になる。

 人間も育つのをじっくりと見守るのではなく、型にはめ、知識をつめ込み、愛情を欠かして合理的に育てると、無味無臭、味わいのない、何事が起きても対応の出来ない、人工人間が出来上がってしまう。

 バイオテクノロジー、遺伝子組み替え食品の研究が盛んだ。自然の領域を、人間の力で変革しようとする。神の力、人智で計り知れない部分への挑戦。遺伝子組み替え技術は人間が何も判っていない分野の中で、ほんのわずか外側に見えた部分だけで、その全体を知ったつもりで改革を計ろうと企てているのではないか。遺伝子の組み替えによって、優秀な食べ物ができる! それは組み替える技術を知ったとしても、そのものの総てを知った事にはなるまい。そのものの、その事柄の外郭が見えただけの事であり、人の眼で見て知ったある一方向からの、ある部分でしかない。そこにある事物が、どの様な因果関係で出来上がったのか、その瞬間瞬間の運動、影響、力関係、そして突然変異までも予測して事を成しえたのであろうか。遺伝子組み替えは、単純な1+1=2の方式のみでの研究ではなかろうか。人間の生命に関するその研究は1+1=2ではなく、3でも4にでもなる。その部分での研究が重要であり、生命はその部分で成長してきたのではないか。生命の成長は突然変異の歴史であり、真実は正確な物差しでは測り切れない部分にこそあるのだ。現に我々人間がここに生きている。

 厚生省が何の知識も危険意識もなく、1996年、アメリカ、カナダ、ベルギーの遺伝子組み替え作物、ジャガイモ、ナタネ、ダイズ、トウモロコシ、7品目の輸入を許可した。遺伝子組み替えによってそれらの食品を食べる害虫を殺す毒素を、それらの食品自体に組み込んだ。それを人間が食べて無害とは言い切れまい。企業は実験が成功すれば即、量産する。しかしその結果は十年、二十年先に出てくるとしたら、企業や厚生省は何を根拠に無害と言い切れるのか。薬害エイズの例もあろう。その判断、断定の甘さ・・・。

 現実に輸入された作物は、様々な加工食品に姿を変え、すでに我々の体内に入っている。それを表示する義務も無いとしたら、我々は選択する術もない。自分の嫌いな食べ物、体に合わない食べ物は、自己の判断で口から吐き出したい。全人類の運命を一部の人間が支配、決定する権利などあろうはずは無い。遺伝子組み替えは、人間の予測出来ない分野までをも破壊的に変革してゆく。

 人間が想像出来る事柄はいつか起こり得る。野の咲く花が皆人間の顔をして騒いでいたり、川で泳ぐ魚を捕まえたら人間の顔をして、突然しゃべり始めたり、鳥の頭をした人間が歩いていたり。

 そんな世界は真っ平、ご免だ。

 
   
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