青焔会報 1997年11月号

 
   
不二  
米山郁生
 
   

 美しさとは何か。

 美とは、“これが美だ!”という厳然とした一つの基準がある訳ではなく、時代と状況に関わって常に揺れ動くものなのだ。

 絵画の歴史を見てもしかり、芸術としての様式がある時代を席巻したとしても、それが永遠に続く訳ではない。ある時間を経ると視覚の中で見慣れる事によって感動は湧かなくなり、それは当たり前の様式と化してしまう。そして新たな美を求めるのだ。ごく自然に変化する事もあり、又、激しく反動的、反抗的に新たな美が生まれることもある。だが、見るたびに感動を呼ぶ作品にもしばしば出会う。これは鑑賞者の想像力や、他の多くの作家たちの作品制作の、可能性を超越した領域に達した作品、のみに与えられた感動なのだろうか。いつの、どの時代にあっても人の心を揺さぶる、人の手によって神の領域に、或いは無の領域にまで高められた芸術品。

 人間の美意識は視覚と精神によって形成されている。外面的なものを、眼から脳に伝え、脳の何処かにある“こころとして感じる部分”でその作品に表れる精神を理解しようとする。そのこころの部分を揺さぶる作品が、芸術品として認知されるのだろう。絵に限らず、書、彫塑、音楽、小説、演劇、映画その他多くの分野で芸術表現をする作者が作品を発表する。初めての出会いに鑑賞者が感動したとしよう、鑑賞者は見る側の立場から、その作家への期待に想像力をかき立て、更なる作品への創造を無意識の内に求めている。その想像の度合いに満足するだけの努力を作者は、作品への研鑚、そして内なる精神の高揚に努めてゆかないと、鑑賞者の失意の果てに忘れ去られてしまうのだろう。鑑賞者が作家の作品を単なる視覚的産物として見るだけなら別なのだが・・・・・

 作品にも、作者のドラマを背負ってその情感を満たしてゆくものがある。作者が自らの作品と想像力との延長線上に、自らの生命を美学の果てに昇華する。自らの命を断った多くの作家、画家、音楽家達がその物語を語っていよう。

 容姿のいい役者が居る。始め人気が出たとしても大根役者では、短い月日で忘れ去られる事になる。反面、容姿が整わなくても味のある演技、内から放たれる精神の輝き等が役者の魅力を倍増させてゆく。それは自然体のままで培われるのではなく、血の出るような修練に依って眼に見えぬ程、僅かに光を増してゆくのだ。

 こころを燃やして寄り添った男女が、家庭を持った途端に色褪せてゆくのであれば、その先の長い人生の価値を、半減させて生きる事になりはしないか。お互いが自己啓発をする努力と相互の緊張感が、より確かな関係を築き上げてゆく。特に女性の三十代までの“おんな”としての美しさを、その後にどう歳を重ねてゆくのか、外を見せる事から、内に輝く光を求めてゆく事で、自らの人生を高める事となる。

 人も自然も同じであろう。富士山が常に美しさの象徴として賞賛されるのは、その姿、形だけにあるのではなく、雲や光、大気、太陽、季節等によって刻々とその姿を変え、又、時には自らの姿を隠し、我々の期待や想像力をかきたてるからなのだろう、不二と言われる所以でもある。

 破壊されてゆく美、構築してゆく美、それらの狭間の中で両者を包み込んでゆれ続けるもの、上手い絵ではなく、いい絵、生きている絵、常に内から輝きを放ち、幾世にも生き続ける絵を描いていきたいと思う。

 
   
青焔会報 一覧に戻る
 
   
絵画教室 愛知県名古屋市内外 青焔美術研究所 トップページ